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WANDER×WONDER

虎ノ門から四ツ谷へ!小林政能さんと歩く江戸城外濠と溜池

5 時間前
読了時間: 6分

清水谷公園の大久保公哀悼碑を前に説明する小林政能さん

清水谷公園の大久保公哀悼碑を前に、説明する小林さん。


虎ノ門で石垣を見ていたら、小林さんの案内は足元へ。舗装の中にも、かつて石垣があった位置を示す線が続いているのだそうです。通り過ぎてしまいそうな場所にも、江戸城の外濠をたどる手がかりがありました。


2026年10月11日(日)、WANDER×WONDERでは、虎ノ門から四ツ谷へ、浮世絵で江戸城外濠をたどるツアーを開催しました。案内役は、境界協会の小林政能さん。古い地図や浮世絵を手に、溜池、赤坂見附、紀尾井坂を経て四ツ谷へ向かいます。


虎ノ門の石垣は、どこまで続いていた?


「いいですね、ここは何度来てもいいですね」

最初に訪ねた江戸城外堀跡で、小林さんが指すのは石垣の表面。大名家の刻印や、石を割った跡が残っています。大きな石の塊を眺めていた目が、一つひとつの印へと移ります。


ここに残る石垣は、寛永13年(1636)に築かれた外濠の一部。展示には、かつての水面や底の位置も示されています。水があった高さと、今立っている地面を見比べながら、濠の深さを確かめました。


虎ノ門の江戸城外堀跡に残る石垣と石の表面の刻印

虎ノ門の江戸城外堀跡。石の表面には刻印が残っています。


さらに周囲を歩くと、舗装に示された石垣の位置にも注目する小林さん。


「この石はね、自分で気づいた時にすごい感動したんだよ」

線が曲がるところで立ち止まり、地図や、離れた場所に残る石垣と見比べます。小林さんがたどっているのは、点々と残る石垣をつなぐ、かつての濠の形。ご自身が見つけたときのうれしさも、その言葉に残っていました。


虎ノ門の舗装に示された、かつての石垣の位置

足元の舗装にも、かつて石垣があった位置を示す線が。


浮世絵の中にも、同じ鳥居があった


続いて訪ねた虎ノ門金刀比羅宮では、資料の絵と、目の前の銅鳥居を見比べます。柱を飾るのは、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神。小林さんは、絵の中にも同じ飾りが描かれていることを教えてくれました。


次に目を向けるのは、絵の中で門の前に集まる参拝客です。古い地図を開くと、金刀比羅宮は讃岐丸亀藩・京極家の屋敷につながっています。大名屋敷の中にあった神社が、周囲の変化を経て今も残っているのだそう。


鳥居の形を確かめ、絵の中の人を見て、地図で屋敷との位置関係を探す。小林さんの説明を聞きながら、同じ資料を何度も見直します。ビルに囲まれた境内に、参拝客が行き来した江戸の景色を重ねるひとときでした。


虎ノ門金刀比羅宮で浮世絵の資料を指して案内する小林政能さん

虎ノ門金刀比羅宮で、資料と目の前の景色を見比べます。


「溜池」は、飲み水を蓄える江戸のダム


外濠が折れ曲がる場所では、浮世絵に描かれた水の流れをたどりました。今は見えない、当時の景色を説明する小林さん。


「ここで堀が曲がるわけね。この先に滝があるわけですよ」

その水のもとが、溜池です。かつて虎ノ門から赤坂見附にかけて広がり、江戸の飲み水を蓄えるとともに、城を守る外濠の役割も担っていました。水をせき止め、蓄えた水を流す仕組みは、まさにダム。駅名や交差点名として聞き慣れた「溜池」の広がりを、古い地図の上で追っていきます。


ここで小林さんが示すのは、現在の港区と千代田区の境です。かつての池の岸辺と、今の区境には、おおよそ重なるところがあるとのこと。完全に同じ線とはせず、道の曲がり方と地図を見比べながら歩きました。


溜池の位置から、日枝神社の正面を考える


続いて向かった日枝神社では、正面の階段にも立ち寄ります。


「こっちが本来の正門ですね」

小林さんが示したのは、江戸城に向く側です。溜池が広がっていた側には、人が行き来する入口を設けにくかったというお話。古い絵の階段と現地を見比べ、神社と池、江戸城の位置関係を確かめました。


今は道路やビルがある場所も、かつては水辺だった。溜池の輪郭をたどってきたことで、神社の向きにも目が向きます。


日枝神社で見かけた赤い鳥居の連なりと階段

日枝神社で見かけた、赤い鳥居の連なる階段。


弁慶橋は、江戸時代にはなかった


赤坂見附跡では、再び石垣を間近に見ます。小林さんは、濠沿いの石垣に比べ、門の石垣はかっちりした印象だと話します。虎ノ門で見た石垣を思い出しながら、その違いを確かめました。


赤坂見附跡に残る石垣の角と説明板

赤坂見附跡の石垣。虎ノ門で見た石垣との違いを確かめました。


そこから弁慶濠へ下ると、今度は水面が広がり、釣りをする人たちの姿も。ここでは、今も水をたたえる外濠を見ることができます。


一方、この場所に弁慶橋が初めて架けられたのは、明治22年(1889)のこと。江戸時代には、この橋はありませんでした。小林さんは、城を守る濠に橋をたくさん架けてしまっては、防御の意味がなくなると説明します。


今なら橋で渡れる場所も、当時は別の道を通る必要があった。そのことを頭に置いて、紀尾井町へ進みます。


弁慶橋から見た弁慶濠の水面と周囲の街並み

弁慶橋から眺める弁慶濠。今も水をたたえる外濠の風景です。


大久保利通は、なぜこの道を通ったのか


紀尾井町の名は、この地に屋敷を構えた紀伊徳川家・尾張徳川家・彦根井伊家から一字ずつ取ったもの。その一角、清水谷公園で、大久保利通の大きな哀悼碑を見上げました。


明治11年(1878)、大久保は赤坂仮皇居内の太政官へ出仕する途中、清水谷で暗殺されました。小林さんは、なぜ大久保がこの場所を通ったのか、と地図を開きます。


当時は皇居の火災により、天皇の住まいが赤坂の仮皇居に移っていました。大久保が向かっていたのも、その赤坂です。先ほど渡った弁慶橋は、まだ架かっていません。


小林さんが地図に示したのは、ご自身で考えた移動ルートでした。


「馬車が通れる道っていうことを考えないといけない」

橋がなければ、通れる道も変わる。さらに小林さんは、坂で馬車の速度が落ちることに着目し、襲撃場所との関係を考えます。当時の道と地形から事件を読み解く、小林さんの見立てです。


説明のあとには、紀尾井坂を実際に上りました。坂を上る足取りに、先ほど聞いた馬車の話が重なります。


道を食い違わせて守る、喰違見附へ


坂の先にある喰違見附では、土塁に囲まれた出入口の形を見ます。赤坂見附の石垣とは、また違ったつくり。小林さんによると、もとは道を鍵の手に曲げて通す形で、現在は車が通れるよう、曲がり方が緩やかになっているそうです。


この付近は、大久保利通の事件より前に、岩倉具視が襲われ、生還した場所でもあります。濠を渡る道と、その脇の斜面。古い絵を見たあとで現地を眺めると、出入口の限られた場所を人が行き来していたことが伝わってきます。


外濠沿いをさらに進み、迎賓館の前を経て四ツ谷へ。この日は迎賓館へ向かう人の列もできていました。小林さんはここでも地図を開き、港区と新宿区の境を示します。行列を眺めているときも、目線はやっぱり境界へ。


ツアーの終わり、小林さんは、訪れるたびに少しずつ変わるところも含めて「たまらないコース」と話していました。このツアーを始めた頃にはなかった説明板もあるのだそうです。昔の痕跡をたどりながら、今の東京の変化にも出会うまち歩きでした。


虎ノ門の石垣から始まり、消えた溜池、橋のなかった道、紀尾井坂へ。離れていた場所が、歩くうちにつながっていきました。次に虎ノ門を通るときには、石垣の前で足を止めて、その先に続く線も探してみたくなります。


小林さんと水辺の痕跡をたどるまち歩きは、行徳のツアーレポートでも紹介しています。次のまち歩きは、WANDER×WONDERのツアー一覧から。


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