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水路の跡を追えば、行徳の町が見えてくる! 2026⁠年⁠8⁠月⁠9⁠日⁠(⁠日⁠) 【行徳】ツアーレポート

  • 8 時間前
  • 読了時間: 7分

行徳駅前に広がるのは、マンションや店が並ぶ、今の住宅地の風景です。

ところが、小林政能さんの配付資料を開くと、地図の上には線がびっしり。「異様になんか引っ張った線が多い」と本人も笑うほど、旧道や水路が複雑に重なっています。

案内役は、境界協会の小林政能さん。行徳駅から妙典駅まで約5kmを歩きます。この日の問いは、小林さんの言葉を借りれば「行徳の町とは何ぞや」です。

駅前の田んぼと、ぽつんと残った弁天さま

最初に立ち寄ったのは、駅から少し歩いた公園の中。大きな木の下に、琵琶を持つ弁天さまが祀られています。

行徳駅近くの公園に祀られた、琵琶を持つ弁天像
かつて田んぼの中にぽつんとあったとされる弁天さま

小林さんの資料によると、東西線の開通と昭和40~50年代の区画整理より前、この一帯には田んぼが広がっていました。その中の少し高い場所に、弁天さまだけがぽつんとあったといいます。町が整えられた後も、ここだけは公園の一角に残りました。

ここからは、住宅の間に残る細い道や、わずかな段差を見ながら進みます。舗装された道にしか見えない場所も、古い地図と比べれば水路の跡。駅側の田んぼだった区域を離れ、「まあ、ここから本来の行徳のゾーンに入っていくと思ってください」と小林さんが示した境目も、暗渠の線でした。

続いて訪ねた圓明院では、元文3年(1738)建立の山門を見学。年代が分かる行徳地区の建造物としては、最も古いものとされています。

圓明院の山門前で地図を掲げて説明する小林政能さん
圓明院の山門前で、地図を使って町の成り立ちを説明する小林さん

行徳には、家康が江戸へ入る前から開かれていたとされる寺がいくつもあります。一方で、度重なる水害により、建物や文書が失われてきた町でもあるそうです。歴史は古いのに、言い切るための証拠が残りにくい。小林さんは、そのことを道中で何度も確かめていきました。

旧江戸川へ近づくと、湊水神宮と、かつての祭礼河岸へ。水難よけや船の安全を願う水神さまのそばに、水路と水門の痕跡が残っています。祭礼河岸は、魚や農産物などを江戸へ送り出した貨物中心の河岸でした。

行徳の住宅地に残る、かつての水路と水門の設備
祭礼河岸のそばに残る水路と水門の痕跡

目の前の細い流れが、昔は船の入る水路だった。地図を見てから道路や排水施設を眺めると、荷を上げ下ろししていた場所の形が、今の町にも重なって見えます。

この日のスタートは17時。それでもまだ暑い夕方です。「30度はいけるじゃんって思うようになってる我々がすでにおかしい」と小林さん。暑さを話題にしながら、歩みを進めます。

水路跡の先に、船頭たちの町

押切稲荷神社で社殿を背に説明する小林政能さん
押切稲荷神社で境内の見どころを聞く

押切稲荷神社では、浅間神社や富士塚、社殿を埋める細かな彫刻を見て歩きました。千寿いちょうに刻まれた「千寿ほほえみ面」を見て、小林さんがぽつり。

押切稲荷神社の社殿を彩る細かな彫刻
細かな彫刻が残る押切稲荷神社の社殿

「ちょっと可愛いよね。絶対夜になると喋ると思うんだよ」

千寿いちょうの幹に刻まれた「千寿ほほえみ面」
小林さんが「絶対夜になると喋ると思う」と笑った千寿ほほえみ面

すぐ近くの「おかね塚」には、船頭と吉原の遊女・おかねにまつわる悲しい話が伝わります。小林さんはその伝承を紹介したうえで、別の読み方も示しました。

船頭が吉原へ通えるほどの財を持っていたとすれば、それだけ水運の町が栄えていたとも考えられる。悲話の奥から、行徳で動いていたお金の大きさが見えてきます。

おかね塚の石碑前で由来を説明する小林政能さんと参加者
船頭と遊女・おかねの話が伝わる「おかね塚」

蓋をかけた水路の上を歩き、伊勢宿の豊受神社へ。住宅地の中で、力のある顔立ちの石造狛犬が目を引きます。

徳蔵寺では、別の寺から移された常夜灯を見学。小林さんによると、背面には安政の大地震の記録が刻まれているとのことでした。

ここで一度、徳川家康が鷹狩りの際に通ったと伝わる権現道へ入ります。小林さんは伝承を紹介しながらも、「まあ、証拠はないのは行徳らしいところと思ってください」と、きちんと留保をつけました。

夕暮れの行徳で、古道と水路跡を地図で確かめるツアー参加者
古い地図と見比べながら、町に残る水路跡を追う

さらに歩くと、瓦屋根の行徳ふれあい伝承館が現れます。建物は昭和4年(1929)築の旧浅子神輿店。到着時には閉館していましたが、外から建物を見ながら、行徳に浅子、後藤、中台という神輿店があったことを聞きました。

日本橋から船で来て、ここから成田へ

行徳街道沿いには、安政元年(1854)に建てられたとされる笹屋うどんの建物が残っています。行徳船を待つ旅人が休み、干しうどんを土産に買った店です。

源頼朝がここでうどんを食べたという話も残りますが、小林さんは「まあ伝承ですからね、言いたい放題なんですけどね」と笑います。伝承は伝承として楽しみつつ、事実と混ぜない。この距離感も、小林さんの案内らしいところです。

笹屋の先にある常夜灯公園付近は、先ほどの祭礼河岸とは別の「新河岸」。寛永9年(1632)に始まった行徳船は、江戸川、新川、小名木川を通り、日本橋小網町まで約12.6kmを結びました。塩や農産物だけでなく、人も運ぶ航路です。

江戸から船で来た成田参詣の人々は、ここで陸へ上がり、行徳街道から成田道へ向かいました。笹屋、旅籠、船着き場、常夜灯が一枚の絵の中に並ぶ理由が、現地でようやくつながります。

文化9年(1812)に建てられた常夜灯は、江戸日本橋側の成田講の人々が航路の安全を願って建立したもの。小林さんは川を指しながら、「昔の人はここから船乗れば、もう次、日本橋ですから。えー、めっちゃ近く感じてるわけですよね」と話しました。

夕暮れの旧江戸川沿いに立つ行徳の常夜灯
行徳船の航路の安全を願って建てられた常夜灯

昨夏の「夜に輝くツインゲイトをめざして!」ツアーレポートでは、日本橋小網町側にあった行徳河岸跡を歩きました。今回はその反対側、船が到着した行徳から同じ航路を見ることになります。

夕暮れの旧江戸川には、雲の切れ間の光が映っていました。小林さんの「川風受けながら歩きますかね」という言葉どおり、川沿いを歩きます。

寺町の先に、神輿職人の町

再び暗渠を追って町の中へ入ります。

小林さんによると、明治10年頃に建てられた田中家住宅は、初代行徳町長の家。家業は、塩を扱う「塩場師(しょばし)」だったそうです。塩の町という言葉が、古い家の仕事として具体的になりました。

行徳に残る古い木造家屋を見ながら説明を聞くツアー参加者
古い木造家屋の前で、行徳の町の歴史を聞く

赤い鳥居の奥には、市街地に残された大きな富士塚もあります。薄暗くなり始めた境内で石碑の文字を探し、足元の段差を一つずつ上がりました。

赤い鳥居の奥に残る、市街地の富士塚
市街地に残る大きな富士塚

やがて道は、先ほど通った権現道へ戻ります。行徳街道より古いとされる細い道の周囲には、寺が並びます。

権現道の案内板の前で、古道について説明を聞くツアーの様子
行徳街道より古いとされる権現道

小林さんは、曲がった道について「すぐ鍵の手って言うと、城下町みたいなことにしてるんですけど」「そんなことはない。地形的にそうなってるだけです」と説明します。分からないことは分からないと区切り、そのうえで町の成り立ちを探っていきます。

法善寺では、行徳へ製塩技術を伝えた人物の話が残る「潮塚」を探しました。道路からは見つけにくい境内の奥にあり、小林さんも「どうやってこれ探せっていうんだって」と苦笑。さらに進むと、船と陸路の接続点らしく、馬頭観音や、暗渠の上に残る橋の親柱も見つかります。

夜の境内で馬頭観音と案内板を見る小林政能さんとツアー参加者
船と陸路の接続点に残る馬頭観音

最後の大きな立ち寄り先は、中台製作所の行徳神輿ミュージアム。この日は休館日でしたが、外から照明のついた展示を見ることができました。

夜の行徳神輿ミュージアムで、窓越しに見える展示神輿
休館日の行徳神輿ミュージアムを外から見学

市川市の資料によると、行徳では寺社の集積とともに宮大工や漆塗りなどの技術が育ち、それが神輿づくりへ受け継がれてきました。現在も中台製作所が、関東各地の神輿の製造や修理を担っています。「行徳の神輿文化と祭礼」は、2024年に市川市指定無形民俗文化財となりました。

妙典駅近くに着いた頃には、町はすっかり夜です。最後にもう一度地図を開き、小林さんは、内陸側に田んぼ、その海側に塩田が広がっていた配置を説明しました。江戸川から染み出す真水を避けるように、塩田は海側へ伸びていったのだそうです。

行徳駅を出たときには、普通の住宅地に見えていた町。約5kmを歩くうち、細い道の下に水路跡があり、曲がり角に古道が残り、川辺が日本橋へ向かう船の玄関口だったことが少しずつ分かってきました。

小林さんが最初に投げかけた「行徳の町とは何ぞや」。塩、船、寺、旅人、職人、神輿のつながりを、実際に歩いて確かめた2時間半でした。

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