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WANDER×WONDER

文豪は、甘いものがお好き? 進士素丸さんと味わう、芥川龍之介・夏目漱石・川端康成ゆかりの和菓子5品|2026年8月29日(土)〖浅草〗文化体験レポート

  • 2 分前
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2026年8月29日(土)の浅草は、第41回浅草サンバカーニバルの開催日。雷門通りをはじめ周辺の道路には朝から交通規制が敷かれ、街には多くの人が集まっていました。


そのにぎわいのすぐそば、Tokyo Tourist Lounge Asakusaでは、ワンダーワンダー(WANDER x WONDER)の「文豪和菓子の会」が開かれました。


テーブルに並んだのは、船橋屋のくず餅、向島の長命寺桜もち、空也もなか、谷中・喜久月の「あを梅」、上野うさぎやのどらやきの5品です。


進士素丸さんと味わう、5つの「文豪和菓子」


進士素丸(しんじ・すまる)さんは、『文豪どうかしてる逸話集』『文豪てくてく散歩』などの著者です。


文豪の随筆や日記、書簡、周囲の人々の回想、そして街に残る店や建物の痕跡をたどりながら、作品だけでは見えにくい作家たちの素顔を、軽妙な言葉で伝えています。


執筆のほか、講演や文学散歩も行っています。進士さんが拾い上げるのは、笑ってしまう失敗や、少し面倒な人付き合い、妙に細かな好みといった、文豪を近くに感じるための話です。


今回の企画も、始まりは宮本さんからの「文豪散歩をやりませんか」という一言でした。


街を歩いて史跡を訪ねるだけでなく、文豪たちにゆかりのあるお菓子を一度にそろえ、その逸話を聞きながらみんなで味わったら面白いのではないか。そうして、今回の5品が選ばれました。


ただし、今回の5品には、当日や翌日までに味わいたい菓子もあります。


「今日のお菓子は、昨日、今日で僕ら全部手配したものです。だいたい、賞味期限が1日か、その日なんで」


空也もなかは予約して受け取り、うさぎやのどらやきは前日の朝から店へ出向きました。「あを梅」は当日、喜久月から届けていただきました。5品をそろえるにも、前日と当日の手配が必要でした。


進士さんは、「自由に食べながら聞いていただければ」と会を始めました。


知識を聞くだけではなく、ゆかりのあるお菓子を味わいながら、文豪たちの暮らしへ近づいていく時間です。


口のきなこから見えてくる、芥川龍之介と志賀直哉


最初に紹介されたのは、船橋屋のくず餅でした。


亀戸天神の近くに本店を構える船橋屋には、文豪と甘味を結ぶ話がいくつも伝わっています。


進士さんによると、店内に掲げられた「船橋屋」の看板を書いたのは吉川英治。それまで看板や大きな文字を書いたことがなかった吉川が、船橋屋との縁から「初めてで最後」と筆を取ったのだといいます。


吉川英治は、仕事に疲れるとパンに黒蜜を塗って食べていました。いくつもの黒蜜を試した末、船橋屋の黒蜜を気に入ったことが、看板を揮毫する縁になったそうです。


そして、芥川龍之介です。


進士さんが船橋屋に代々伝わる話として紹介したのは、芥川がまだ中学生だった頃のことでした。


学校のマラソンの途中、芥川は列をこっそり抜け出し、船橋屋へ寄ってくず餅を食べました。何食わぬ顔で列へ戻ったつもりでしたが、先生にはすぐに見つかってしまいます。


「なんでバレたんだろうと思ったら、口の周りがきなこになって」


進士さん自身も「本当かどうかは分からないですけど」と断ったうえで紹介した、店の伝承です。それでも、教科書の写真では険しい顔をしている芥川が、甘いものの誘惑に負け、証拠を口元に残した少年だったという光景には、思わず笑ってしまいます。


くず餅の話は、志賀直哉の日記にもつながりました。


進士さんは、27歳のある日の志賀について、落語を聞き、船橋屋でくず餅を食べ、家へ帰って寝た一日として紹介しました。


ここで進士さんが付け加えます。


「その日、志賀直哉、誕生日ですよ。寂しいですよ」


落語を聞き、くず餅を食べ、帰って眠る。大きな出来事のない一日も、日記から拾い上げると、志賀直哉の静かな誕生日の風景になります。


進士さんの話は、年表に載る出来事よりも、こうした何気ない一日の細部から文豪を見せてくれます。くず餅を味わいながら聞くと、芥川の寄り道も、志賀の誕生日も、日記の一行より具体的に感じられました。


桜餅屋の二階から、『吾輩は猫である』の空也餅へ


続いて味わったのは、向島の長命寺桜もちです。


進士さんは、隅田川沿いの桜の葉を塩漬けにし、餅を包んで長命寺の前で売り始めたことから、この名で親しまれるようになったと紹介しました。


その店の二階で、学生時代の正岡子規がひと夏を過ごしたといいます。


店には、おろくさんという美人で評判の看板娘がいました。子規の友人たちが遊びに来ると、おろくさんがお茶を出してくれます。すると友人たちは、子規がおろくさんを好きなのだろうとはやし立てました。


「え、好きじゃねえし、みたいな」


進士さんが当時の子規の気持ちを現代の言葉へ置き換えると、明治の俳人が、友人に恋心をからかわれてむきになる若者として立ち上がってきます。


長命寺桜もちには、ここでも芥川龍之介が登場しました。


知人へ送った手紙に、長命寺の餡が最近おいしくなったという趣旨のことを書いていたそうです。中学生の頃にはくず餅のきなこを口に残し、大人になってからは桜餅の餡の変化を手紙に記す。芥川が、思っていた以上に甘味をよく味わう人だったことが見えてきます。


抹茶をはさみ、次は銀座の空也もなかへ。

文豪和菓子の会で抹茶を点てる様子と、奥に座る進士素丸さんと参加者
文豪和菓子の会で、抹茶を点てるひととき

夏目漱石の『吾輩は猫である』に登場するのは、もなかではなく「空也餅」です。餡をもち米で包んだ冬季の菓子で、作品の中には、当時の人々が実際に親しんでいた店の味が入り込んでいました。


進士さんによると、森鴎外をはじめ、多くの文人も空也の菓子を好んだといいます。話は、店が上野にあった時代と、銀座へ移った後の東京へ広がりました。


空也もなかの表面には、少し焦がしたような色があります。初代が友人の九代目市川團十郎を訪ねた際、火鉢で少しあぶったもなかを勧められ、その香ばしさから焦がし皮を採用したという話が残っています。


川端康成が好んだ、喜久月の「あを梅」


続いて味わったのは、谷中・喜久月の「あを梅」です。


進士さんは、5品の中でも「あを梅」をとりわけ楽しみにしていました。


「あを梅、僕、最後にしたいんですよ。あを梅が一番好きなんですよ」


大事に取っておきたいと言いながら、少し考えると、「いや、でも、あを梅、行っちゃいましょうか」と自分で順番を変えます。その様子もまた、好物を目の前にした人らしいものでした。


「あを梅」は、求肥の皮で爽やかな味噌餡を包んだお菓子です。


この菓子を好んだ文豪として、進士さんが紹介したのが川端康成でした。


川端は昭和4年から10年まで店の近くに住み、喜久月の和菓子に親しんでいました。


妻の秀子さんは店に通い、来客の際によく喜久月の菓子を出していたと、後に回想しています。川端自身も客人と一緒になって食べたそうです。


一方、「あを梅」は三代目が後年考案した菓子です。喜久月の店史では、川端も「あを梅」を愛した一人として紹介されています。


「あを梅」という好物と、来客をもてなした喜久月の菓子。川端康成という名前からは見えにくい、甘味を囲む日常の一場面です。


絵まで描いた芥川の注文と、うさぎやのどらやき


最後の一品は、上野うさぎやのどらやきです。


このどらやきを用意するため、進士さんは前日の朝、開店30分前の8時半に店へ向かいました。これなら最初に買えるだろうと思っていたところ、すでに先客がいたそうです。


「おじいちゃんに抜かされましたね。おじいちゃんが先にいましたもんね」


買い出しの苦労を笑いに変えながら、話はうさぎや二代目・谷口喜作と文人たちの交流へ移っていきます。


俳句や書、装丁を手がけた喜作は、多くの文人と親しく付き合っていました。中でも特に関係が深かったのが、またしても芥川龍之介です。


くず餅、桜餅、そしてうさぎや。


「今回は、ほぼほぼコンプリートしました」


進士さんが笑うほど、芥川はこの日の5品に何度も姿を現しました。


1923年、芥川が鎌倉の宿に滞在していた時、うさぎやの主人へ送った手紙があります。鎌倉にはおいしいお菓子がなくて困っていると訴え、菓子を送ってほしいと頼んだものでした。


ただし、お願いはそれだけではありません。


「こういうお菓子を作ってほしい、絵まで描いて。ここは求肥です、ここは何かですって」


芥川は、食べたい菓子の形だけでなく、中身まで絵を添えて指定していました。


進士さんは後年、この手紙を読むだけで終わらせず、そこに描かれた菓子を実際に再現する企画を行いました。


鎌倉の和菓子店へ、「鎌倉においしいものがないと言われていますよ。いいんですか」と持ちかけ、手紙に残された芥川の注文どおりに作ってもらったそうです。


その名も「芥川龍之介のわがまままんじゅう」。期間限定で販売され、進士さんは「定番で売ってもいいんじゃないかと思った。結構おいしかったです」と振り返りました。


この時は、手紙の内容を紹介するだけで終わらず、そこに描かれた菓子を実際に作ることで、芥川の細かな注文を味として確かめました。


現在はどらやきで知られるうさぎやですが、「喜作最中」も創業時から受け継がれ、今も販売されている看板菓子です。


芥川は胃腸を悪くしていた頃、喜作最中を一度に三つしか食べられない、という趣旨のことを手紙に書いています。


「お腹壊してるけど、十分食べてますよね」


「三つも」ではなく「三つしか」と考えているところに、芥川の甘いものへの思いが表れています。


芥川と喜作の関係は、菓子の注文だけでは終わりませんでした。進士さんは、名前の誤記を喜作が直させた逸話を紹介しました。記録によると、芥川の死後、焼場の立札に「龍之助」と書かれているのを喜作が見つけ、「龍之介」と書き直させたといいます。


名前の一字も見過ごさなかったことから、二人の親しさが伝わってきます。


文豪と聞くと、酒を飲む姿を思い浮かべる人が多いかもしれません。しかし、進士さんの話に登場した文豪たちは、実によく甘いものを食べていました。


くず餅を食べに寄り道し、桜餅の餡の変化を手紙に書き、欲しい菓子の絵まで描いて注文する。胃腸を壊しても、もなかを三つ食べる。


進士さんは、文豪が生きた時代には、甘いものが今以上に価値のあるものだったのではないかと話しました。


この日、5つの和菓子を味わって見えてきたのは、文豪の意外な甘党ぶりだけではありません。


友人にからかわれてむきになる正岡子規。なじみの店の菓子で客をもてなす川端康成。口の周りのきなこで寄り道がばれる芥川龍之介。


作品名や年表だけでは遠くに見える人たちも、日記や書簡に残された小さな出来事を知り、ゆかりの菓子を味わうと、急に生活のある人として見えてきます。


当日届けていただいた「あを梅」も、前日の朝から並んで手に入れたどらやきも、運営側が前日と当日に手配した、文豪ゆかりの5品でした。


文豪は、甘いものがお好き?


少なくとも、この日に進士さんが紹介した文豪たちは、かなり好きだったようです。そして、その甘いものへのこだわりは、彼らを作品の中の名前から、癖のある一人の人間へ変えて見せました。


進士素丸さんの著書



そのほか、各媒体で執筆されています。

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